そんななかで1540(天文9)年、甲斐国はじめ周辺では激しい雨と風が降り荒れます。
五月六月大雨降候、世中サンサンニ候処、又八月十一日ノ暮程ニ大風吹候而、亥剋迄三時吹申候。大海端ハ皆浪ニ引レ、山家ハ大木ニ打破ラレ、堂寺宮悉(ことごとく)吹タフシ申候。地下ノ家ハ千ニ一万ニ一御座候。鳥獣皆死申候。世間ノ大木ハ一本モ無御座候。去程ニ世中ノ事申ニ不及候。殊ノホカ物一向無御座候。浄泉寺モ吹タフシ申候。諏方ノ鳥居ヲモ吹タフシ申候。
『妙法寺記』
甲斐国の飢餓常態は毎年の事ですが、梅雨の長雨に加えて、この8月の台風は記録も具体的で、元冦の時に吹き荒れた「ムクリ風」みたいだと言われ、また、芝をむしり取るくらいの物凄い風という意味の「シハマクリ風」とも呼ばれるくらいでした。
災害に強いはずの大寺院の多くが倒壊し、禁裏にも被害が出たくらい、相当なインパクトを持った風台風でしょう。
この台風は11日の日暮れに暴風が甲斐国に吹き荒れ、午後10時ごろから翌日朝4時ごろまで、風台風として甲斐を襲いました。
この台風も、西は近畿地方(『鹿苑日録』『長享年後畿内兵乱記』『熊野年代記』)から東海・甲信(『勝山記』『王代記』『塩山向嶽禅庵小年代記』『神使御頭之日記』)・関東(『快元都僧記』『赤城山年代記』『年代記配合抄』)から東北南部(『会津塔寺八幡長帳』)へと縦断して、各地に甚大な被害を与えたのでした。
そしてこの秋には作物は取れず、冬には全国各地にて稀に見る大飢饉が起きるのです。
このため、隣国の相模小田原城主北条氏綱は、嫡子氏康への代替わりのために、色々と準備を始めます。
これは飢饉に苦しむ領民に「代替徳政」を認めて、国内の混乱を抑えようとするものでした。
信虎の甲斐国では、そのような動きは見られませんでした。
前月から「私元号」を用いた文書が出回るようになり、嫡子晴信による信虎追放の理由とされている、信虎の「悪行」も、この台風がもたらした大飢饉の時には、既に行われていたと見るべきでしょう。



