2008年07月18日

河越城は何故落ちない?

近世城郭ファン最大の悲劇、廃藩置県により原型が消滅した河越城。

この日本に「難攻不落」を銘打つ城は山ほどありますが、河越城はそこいらの「なんちゃって難攻不落」な城とは違い、何度も敵の大軍の攻撃を退けた実績を持つ城です。

『夢追い〜』でこれから始まる反北条大連合軍が、8万もの兵力をもってしても持ちこたえた実績は流石ですが、扇谷家支配でも朝興の時代に、山内上杉家の猛攻を防いだ実績があるのです。

この城は、太田道灌ベースの縄張りもさることながら、霧隠城という通称もあるくらい、井戸(水源)が豊富にあるのですよね。
これが山城ならば、ひとつしか井戸がない城ばかりになり、皮肉にも篭城兵が多いほど守りは難儀になるのです。
余るくらい豊かな水、これがこの城の強さの最大の秘訣だと思います。

品第301:河越攻め(第7章1節「河越城攻め」5)で、元河越城主扇谷上杉朝定はこう言ってます。
「何処を掘っても水が出る」

天文10(1541)年秋口におきた、氏綱死後直後の朝定のあの河越・江戸攻めは史実ですが、この『夢追い〜』の設定では、いわば今回行われる反北条大連合の河越城決戦の、前フリみたいな節なのです。

山内憲房の力攻めもダメ。近田真孔斎の日干し攻めはKYのため却下。
勘助は三方ヶ原の信玄と同じ「ケツ(背後)丸出しで、おびき出し作戦」を実行しますが、結局北条は警戒し過ぎて不発でした。
ならば今回、彼等(金・菅野・上原とゆかいな派閥の仲間たち)の取る作戦は何でしょうか?

それはどうやら「兵糧攻め」にするみたいですが、北条サイドもしっかりそれを読んでいて、色々と事前準備をしてきました。
それが城自体の防御力の強化はもちろん、玉縄城代の弟北条綱成と叔父北条宗哲の常駐による、指揮系統の骨太化対策。
この2点は、あの扇谷朝定や勘助の河越城攻めの「反省」と「発展」から生まれた教訓です。
有能な河越城代の大道寺でさえ、勘助のケツ見せ作戦で、河越衆は板東武士の尻に火がついて追撃論が大爆発し、指揮が乱され困惑したのです。だから、前フリなのです。
そして更には、排泄能力強化と江戸城との情報確保のための伊佐沼砦の新設と、兵糧備蓄を翌年4月末日分まで入るよう倉庫を増設した事と、永禄時代に信玄に対してやった「塩止め」に見られるような、氏康得意の経済封鎖戦略にあります。

氏康はタイミングをはかりながらも、向こうもさることながら隙を見せてくません。
反北条軍も、そんな隙を見せてくれないのです。
氏康はそんな苦難に悩まされながらも、最後には崖っぷちの最終手段である「決戦は4月」と決めます。



これには、4月でなければならない特殊な理由があるからです。
この戦国乱世の時代では、世界中で当たり前に見かけた現象でしたが、今では世界中でも唯一、どっかの将軍様の国でしか確認出来ないという、学習機能ゼロ(朱子学は「反省」と「発展」を忌み嫌います)もいい加減にしてほしいくらいの怪現象でもあります。

これはこの物語で、管領家を朱子学堕落に設定した理由のひとつにもなっているのです。

しかし作戦を読んでいるとはいえ、あくまでも北条にとっては、4月は生死に関わるとても危険な「ラストチャンス」でした。


北条軍が10倍もの敵に勝った理由は何なのか?
ヒントは「決戦は(兵糧が尽きる)4月」です。
日曜日ではありません。


崖っぷちという言葉が不思議と似合う男、北条左京大夫氏康。
関東戦国時代を根底からひっくり返した河越決戦に、乞うご期待です!
posted by 久良岐 満 at 10:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月16日

歴史は私物化出来ないのよ、分かる?

『戦国武将人気のウラ事情』(PHP新書)を昨日買いました。
鈴木眞哉氏の本は、読んでいて本当に飽きませんよね。

最新の研究により、正しい歴史事情や説を教えてくれるのも楽しいのですが、その逆で、歴史とはどのような事情で間違えてしまうのか、その追跡調査を伺うのも楽しいです。


前にも書きましたが、近代は近世を全否定したうえで成り立ってます。
つまり、明治政府は江戸幕府を否定した上での存在です。

それで徳川に都合の良い歴史人物はファックユーされ、勤皇に都合の良い者がヨイショされるわけで、当然山本勘助みたいな薄汚い存在は歴史から抹殺されますが、近世では一部地域を除いてなにかと悪評だった武田信玄ですから、近代でも好評かと思いきや、特定地域を除いて不評でした。

なぜか?
当たり前です。明治政府も江戸幕府も、根本にある朱子学(水戸学は日本型朱子学です)は変わらなかったのです。

そんな儒教の目線で論じるなら、信玄は父親を追放した極悪人です。
まずはじめに、親不孝者のレッテルを貼ったところから、彼の評価は始められてしまうのです。
ですから過程の正当性など、儒教の知った事ではないのです。
親(&偉い人)への絶対服従と男尊女卑、徹底的懐古主義が、政治の世界における儒教のレーゾンデートルなのです。


過激な懐古主義。発展一途にしか生きられない私らクリエイター組や商人達とは、真っ向から対立するオプションです。
秋津やハルが儒者を小馬鹿にするのも、船長時代の諫早佐五郎が、儒者を東シナ海に放り投げてサメの餌にしたのも、状況も事情も一切汲まないで神経過敏に差別するからです。

儒教とは、独裁者による独裁の為のパワーアップアップキットであり、だから何時も、時の権力者の都合やその時代の趨勢に振り回される事を、私は昨年のお盆に信玄を通じてレポました。
また近い内に加筆修正して出したいと思いますが、信玄というサンプルは結構分かりやすい好例でした。

儒教・皇国史観は、後世の人間から見て思わず抱腹絶倒してしまう歴史解釈が目立ちすぎます。
やる側は大まじめでしょうが、少なくとも未来に対して、思わず「ウケ狙いですか!」とツッコミたくなるくらい、独善的でネガティブな赤面ネタを残してほしくないものです。迷惑ですから…。
確かに現在よりも資料情報が少ないのは分かりますが、それを差し引いても主張は全く変わりません。


水戸・皇国史観では、戦前戦中は特に、天皇には反対意見をしまくり、湊川決戦では、玉砕を部下に強制しなかった楠木正成は、まるで忠犬絶対主義かつ玉砕の神様的存在にまで、好き放題にいじくり回したのです。
勤皇概念自体がまだ存在していない戦国では、毛利元就・織田信秀・上杉謙信・山中鹿介などが忠義と勤皇の武将として厚化粧を強要されました。
彼等がなぜそうしたかという真相は、一切無視です。
ですから、信玄・早雲・道三・長慶みたいな群雄割拠(トラブル)メーカーは、戦争が激化されるにつれ、歴史教科書からそれだけの狭い理由で、リストラ宣告を受けてしまい、乱世が全く乱世の性格を失ってしまったのです。


とはいえ表現手段はひどく不器用過ぎますが、それも全て列強の植民地主義から国を守るための行為だったのです。
そこがウンコタレ軍閥のやってきた事に、完全悪として非難出来ないところでもあります。
堕落しようが暴走しようが玉砕しようが原爆落とされようが無条件降伏しようが、結局私ら子孫たちはみんな、大航海時代から続いてる有色民族総奴隷の恐怖だけは、彼等のおかげ最後まで護って貰えたわけです。
元々明治政府立ち上げの主要素のひとつに、植民地回避がそびえ立っていたのですから…。


とはいえああいう過激な正義は、えてして国を滅ぼします。
そして戦前戦中に大暴走しまくった皇国史観は、歴史を伝える者としての至極当然の義務である、子孫に正しい歴史を伝え残す人間の摂理が、見事なまで完璧に削ぎ落としてしまったのです。
これはもはや歴史ではなく、妄想です。まさに軍閥による『私物化』でした。

当たり前ですが、意図された歴史から正しい未来など、導かれるわけがないのです。
歴史は一体誰の者なのかが、全く見てませんよね。
過去から学んで、良い未来を導かせたいのが歴史と言うのならば、この優先順位は、普通なら「子孫>孫>子供>親>先祖」でしょう。
当たり前過ぎて、記すまでもありません。
しかし儒教では、これは真逆なのです。
だから過去が過剰に美化され、家系図は血統証明からから希望妄想にレベル落ちし、まさにその妄想の正当化のために、巷には偽文書が溢れ出してたのです。
そんな御先祖様のその場しのぎの見栄の為に、21世紀の未だに歴史情報の世界は、夢の島(ゴミの山)状態から抜け出せないのです。
更に勤皇は先祖の上に天皇を置いて、妄想を過激にヒートアップさせてますから、そんな歴史に多くの方が違和感か嘔吐感かトラウマを覚えるのも、そのためでしょう。


残念ながら日本は、近世から終戦(特に軍閥支配時代)にかけて、そんな歴史改竄を頻繁にやってきた、主観一途にスカポンタンな道を歩んできだのです。
このへんは、後世に正しい歴史を伝える為の教訓として知っておいたほうが良いと、私は思います。
その前に、正しい歴史をよく学んで、これに振り回されないようしっかり知的地固めをしておないと、取り返しの付かないくらい大変な事になりますがね…。


私ら作家が歴史をコントロールすることを、歴史小説といいますから、エンタメとして処理されますし、頭からそのつもりで書くのですが、政治が歴史をコントロールをしたら、15年戦争の二の舞を奔るという意味になるのです。
ですからどんな事があっても、歴史は絶対に政治の檜舞台で踊らせてはいけないのです。
まさにその『好例』が、戦前戦中にあるのですから。


歴史を私物化するという事は、自分が抱く現実逃避感情や怨念感情を、正当化して爆発させる危険と直結するからです。

今日から始まった第14章では、実にこれが重要なキーワードとして出てきます。


『夢追い〜』においてでも、そんなKYな歴史を私物化(メイキング)する立場の人間を、ちゅっかり設定させています。
だってそーゆーのは、いつも儒学者の仕事ですもの。
この作品における儒者の立ち位置は、歴史を権力者本位に改竄させた、ある意味皮肉です。
本音は(ヒューマンエラーで歴史を間違えるのなら仕方がないですが)本当に平和国家でありたいのならば、政治と教育で絶対にこんな事をしてはいけないという主義主張です。
彼等を一見ふざけたような書き方をしてますが、それは私がエンタメ屋だからですし、何より彼等の二の徹を絶対に踏んでもらいたくないのです。

そんな設定人物とは、関東管領における金文鉉(架空キャラ)、大内家における相良武任、そして朝廷で「魔物」と言われている連中たちです。
彼等の政敵は、前者は長野業政や小幡憲重ら、中者は陶隆房ら、そして後者には三条公頼ら、そういった営業が得意な行動派の実力者たちです。


間違った歴史情報に、えてして見かけるキーワードのひとつに「儒教(朱子学・水戸学)の影響」があるのです。
しかもそれは他の嘘のケースとは違った、政治謀略的な事情操作がモロに孕んでいるのです。
そんな普通じゃない、孔子の本道すら外れた腐敗儒者が、『夢追い〜』の舞台で自分の飼い主を賛美させる為に、いかにして歴史を彩らせるかという、彼等の過激な正義は発揮されるのでしょうか!?

そこのところも、見所かな…?
posted by 久良岐 満 at 07:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月04日

『夢追い日記』の自然保護概念

6月はエコ月間ということで、戦国と近現代をシンクロさせてるのが売りの『夢追い〜』も、ちゃっかりエコネタも書いております。


その問題で勘助も龍治も、近い将来色々環境発言をするのですが、自然保護とか動物保護で人間が絶対にやってはいけない事は2つあります。

それは、
@取りすぎ(乱獲)。
A守りすぎ(聖域保護)。

です。

@は分かりますよね。『夢追い〜』では、何故蔵原に猪が爆発的に増加したのか、その理由を「狼の乱獲」としてます。
人を襲うから等の理由を挙げましたが、だから猪にとっての天敵がいなくなり、1年で3〜4頭を産み落とすという繁殖力の凄い猪ですから、猪けかじという特殊な飢餓現象が起きたのです。

その蔵原回復の切り札が、狼の復活でした。

これは、日本の現在の害獣問題がそうなのです。
特に鹿と猪は、そうなのです。
その対策として、中国から狼を連れてくるという案があったのですが、やはり外来種という問題から流されたわけです。

そこがヒントになっていす。


Aは、何故それがダメだと感じる方もいるでしょう。
確かに絶滅危惧から改善させるのに、安全値に戻るまでは良いでしょう。
しかし、聖域保護はダメな答えは、あまりにも簡単です。
だって、人間と違って他の動植物は、繁殖に対して「自制」が出来ないのですから。
つまり聖域保護では、生体系が繁殖の強いものから目茶苦茶になるのです。自分達で改善出来ないのです。
ですから、自然は人間が一切干渉しなくても、自然界は荒れるのです。
ここを未だに分かろうとしない、自然・動物保護団体っていますよね。

『夢追い〜』でも聖域例を、少しですが近く出します。
それは上州、山内上杉憲政が初期に出した「鹿狩りの禁制」です。
鹿は神聖な神の遣いとして、絶対保護に踏み切った事で、年を経つごとに鹿の繁殖が目立ち、農作物にまで食い荒らして被害が激化した事です。
農民達は改善要求をしても、神の遣いの名の下に却下し続け、農村は荒れ放題になります。
とはいえ、これだけが農村崩壊の理由ではありませんが…。

山内上杉氏が「鹿猟の禁制」を出したのは本当ですが、物語みたいな結果を実際に出したか否かは謎です。


この山内家の態度のネタ元を明かせば、捕鯨問題です。
ただ私は、大学時代に近代米国捕鯨史を卒論に書いた人間ですので、それを調べる時に、必ず過去の破壊一辺倒と現在の究極保護の両極端に触れていたわけです。
ですから、これを書いた時期は、マスコミ話題をさらったあのシー・シェパードやグリーンピースの騒ぎよりも、実は少し前なのです。
彼等の歯が浮く武勇伝は、卒論製作当時から知ってましたから…。

そんな、クジラは神聖だからペケで、カンガルーは害獣だからマルだとあらぶる彼等の主張を見ても、Aも自然の摂理に逆らっている事は、容易に解るでしょう。

まさに『夢追い〜』内での、憲政政権と同じ態度です。神様絡みですから、禁制の効力は永年(短くても政権交代まで)なのです。

南極では、ミンククジラの異常繁殖が多種のクジラが増えない理由だというのが、IWC科学委員会の一致した見解ですから。

現在の問題についての主張は、ここでのテーマではありませんから答えませんが、ま、そんなところです。

自然界とのお付き合いは、とても難しいのです。
1番大事なものは、乱獲と聖域のあいだです。
自然保護のキーワードとは、実は地球に優しい「間引き」だったりするのです。
つまり、人間は地球の「庭師」だということでょう。



これが完璧な答えかは分かりませんが、少なくとも乱獲と聖域保護よりは、かなりまともな答えだと思います。
龍治姉さんがこれを言うのは、第23章以降になるのかなぁ…?
posted by 久良岐 満 at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月17日

『水滸伝』と『甲陽軍鑑』の摩訶不思議な共通点

奇説珍説完全妄想ですので、『夢追い〜』ネタ程度に見てください。


【正論】「胡訪日」以後 評論家・鳥居民(MSN産経ニュース
これを読んで気になる一文がありました。
「色の黒い小男で、容貌(ようぼう)は醜く、才能もない」

私は恥ずかしながらも中国史はあまり知らないのですが、『水滸伝』の主人公宋江(ウィキディペア解説)は「黒三郎」とも呼ばれていました。
だから毛沢東は、あのようなバッシングをしたのでしょう。
才能が無いとは、偏見の言い過ぎたというのは、分かりやすいですね。

彼みたいな小さくて色黒で醜いって、これ、日本史上の人物に条件ピタリの男がいますね。

そう、われらが山本勘助です。


品第11には、勘助の容姿のことが点々と書かれています。
その中にあるものは、「さんざんな醜男」「そのうえ一眼」「指も不自由で足も不自由」「片輪者(ビッグマウス)」「小男」と、品第24でもボロボロに言われていまして、以上に加えて「色は黒い(汚い)」とあります。


それで類い稀な才能が溢れ、庶民の人気も現在進行型ですから、このアウトサイドヒーローの2人は、なんだかよく似てますね。

偶然なのでしょうか?


もし「チビ・クロ・ブサイク」がキーワードになるのならば、それは山本勘助という存在よりも、むしろ『甲陽軍鑑』という書物かもしれません。


ちなみに、容姿の件に関して、実は勘助にはモデルになった人物がいるのではないかとも推測され、それは『軍鑑』の作者のひとり、大蔵彦十郎ではないかと見られています。
勘助の片足片腕は、大蔵がそうだからダブらせたのだと憶測されているからです。


もし赤字の3つがキーワードなら、ちょっと面白い事があるのです。


毛沢東は中国を建国した人です。
歴史の教師をやっていたことですから、国の基礎固めのためには、儒教史観にも統制にもやかましい人だということが見えてきます。
それで世界中からアンチ民主的とヒンシュクを買い、現在にまで引きずるのです。

なにせ国家の立ち上げの時期です。自分中心に社会を構築させたいのです。
でも反乱分子もまだ数多く潜んでいるという、デリケートな社会背景があるのです。

そしてこれは、江戸幕府にも同じ事が言えるのです。
幕府草創期のメディア支配ですが、家康時代は金地院崇伝(仏教)ですが、秀忠時代からは林羅山(儒教(朱子学))です。
つまり、大名統制(改易など)が異常に頻繁に行われていた時代です。

そんな元和のピリピリした空気の中で、編纂者の小幡景憲は『軍鑑』を世に出すのです。


それで庶民に、夢と希望を与える雰囲気の強い天才武将山本勘助の存在は、将軍護持の身分制でガチガチに固めたい幕府の儒教的中華主義にとっては、目障りになるのは明々白々です。
夢と希望とは、見方を変えれば、既成の価値観破壊活動を導きやすい考え方です。

ですから、そんな下層の人気が非常に高い宋江を、毛は忌み嫌ったのも儒教を照らせば理屈になるのです。
となれば『水滸伝』がこの世に残れたのも、宋江の風貌を、あえて地に落としたからだという、作者側の英知というか、したたかさがあったのではないかという仮説さえ出来そうです。


でも、勘助なしに信玄のサクセスは成り立たない事も動かせない事実です。
この辺の事実と江戸幕府基礎固めという現状のギャップを、景憲は懸念したのでしょうか?

そこまで分かりませんが、『軍鑑』にある勘助最大の謎は、彼は武芸達者で一流の知恵者で築城の天才でありながら、身体障害者扱いしないといけないのか、なのです。

これはある方の受け売りなのですが、別にハンディキャップのある人を差別する意味で言うのではありません。
身体が不自由にもかかわらず、勇者を倒したり砥石崩れでは殿軍を買って出たりと、健常者ですら仰天するくらいの機敏の良さなのです。
これは、ミステリーとしか言いようがありません。


儒教には『身言書判』という、封建的な外見至上主義の考え方があります。
整形大国の起源として有名なこの考え方が、障害者さえ忌み嫌うイデオロギーでもあります。
これが過敏に反応するワードの中に、恐らく「チビ・クロ・ブサイク」があるのでしょう。

『水滸伝』も『軍鑑』も、この外見が事実であれ虚構であれ、あえてそう使う事で権力の魔の手から逃れ、また下層の反乱のネタ元にされることからも避けさせ、それで世渡りが出来たのではないかと私は妄想してしまうのです。

まさか小幡くんは、『水滸伝』のこれを見抜いたのでしょうか?

謎が深まるばかりというか、勝手に謎を増やしてどないすんねん!


ならば、明治以降『軍鑑』が散々なまでに叩き潰された理由に、これは繋がります。
発刊した年代を考えれば、『軍鑑』には江戸儒教対策がふんだんに盛り込まれている訳ですから、それがスパイスにある以上、史実よりも当時の最高権力者の都合で、メディアを成立させないとならないのです。

そして、そんな近世を全否定したのが近代です。
勘助否定の第一人者だった田中博士が、勘助を全否定したのには、そんな明治時代の空気があったからです。

要は昭和43年、北海道で「くだ助」の文字がある市川文書が発見されるまで、私達はみんな、秀忠・羅山の推し奨めた毛沢東も顔負けの儒教(正確には、生き残りの為の編者の儒教対策)に、無惨なまでに振り回され続けた事になるのです。
ならばそれだけ『葵三代』時代の儒教とは、非権力者サイドにとって、恐ろしくも厳しいものだというひとつの目安になりますね。


歴史を読む、日本史や東洋史に必要なカテゴリーの中に「儒教・皇国史観を見抜いて、正しい歴史情報に洗い直す」事があります。
なぜなら、戦国以前の歴史は、例外なく近世・近代を通過して現在に伝わってるからです。
この視点は、一人よがいなネガティブキャンペーンが多分に認められますので、それでピカピカにされすぎた部分と汚された部分を、いかに見抜いて多方面からメスを入れながら修復できるかという、結構ハイな能力です。
とはいえこれはプロの歴史家レベルですから、そこまで身につけるのは難儀でしょうが、私ら素人も、ある程度は知っておくと便利でしょう。
反日史観対策にも応用できますし、戦前・戦中の大暴走した同じ過ちを繰り返さない為の、根本を見抜ける眼力にもなります。
両者とも、火元は同じ朱子学ですから…。
ですから、これを知らずに字面主義にはまると、必ず蟻地獄に陥りますからよ。


新しい資料が発見された時に、いの一番にやらなければならない事は、真偽の確認です。
系図作成が特に言えますが、大低の偽文書が生まれる背景には、『軍鑑』がそうだったのと同じ儒教(=当時の権力者)対策があるからです。

日本の歴史が嫌われる根本原因は、ゆとり教育もそうですが、江戸の朱子学と近代の勤皇(ネタ元は同じ朱子学ですが)が、自分本位に歴史をいじくり回し、ひどく散らかしたまま終戦と同時に消滅したからです。
そんな意味で、徳川光國の『大日本史』と頼山陽の『日本外史』は、日本史の世界におけるA級戦犯だと言われた方は、卓見です。
確かにプラス面の成果も沢山ありますが、結局は偉い人の器の広さ狭さに翻弄されるのですから…。

それに儒教は、毎度の事ながら作家(正確には著作または著作権)殺しを好んでやりますので、その辺は私情が混じって恐縮です。

とはいえ、グチャグチャにされた歴史を修復せねばならないそのツケ払いは、現在にまで至り続けられているのです。



色々とずれてしまいましたが、勘助と宋江の「チビ・クロ・ブサイク」、本当かどうかは、おそらく永遠の謎でしょう。





っつーことで、どうでしょうか…?(ケロロ軍曹風に)
posted by 久良岐 満 at 04:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月15日

信玄堤のルーツ、中国四川省の大地震でやっぱり…。

Image031.jpg中国最古の水利施設、世界遺産「都江堰」にも大地震被害YOMIURI ONLINE(読売新聞))

中国最古にして世界遺産、また信玄堤のネタ元ではないかとも推測さえされている、四川省の都江堰は、やはり地震の影響を受けていたのですね。
甲斐国と都江堰を結ぶ(だろう)人物が、あの蘭渓道隆和尚(写真)ですが、その話は今回はなしです。


ちょっと治水のお話になりますが、都江堰の下流には、規模も疑惑も世界最大級である三峡ダム(工事中)があります。

元々地震&地滑り多発地帯に作ったのです。影響がないとも思えないのですが、大丈夫なのでしょうか?


三峡ダム「異常なし」=中国(時事ドットコム

とはいえ共産党の言う事ですから、他国のメディアとの合致作業が出来ないうちは、どこまで信じて良いのかは、誰も知る由も無いのです。


イギリス人の利水学者フィリップ・ウィリアムスの言葉です。
「三峡での破綻は、史上最悪の人災になるであろう。」

『夢追い〜』の治水娘、龍治の言葉もついでにと…。
「上流のツケは必ず下流に行く。」
大規模な潅漑と排水(地震で大量の汚物が流されるのは、目に見えてますから)が住血吸血虫病の脅威を招くのですが、この問題は四川や中国の中央部を中心にまだ解決してませんよね?

『夢追い〜』では、すでににゃんと第1章に出しています。
それは、今川氏輝を瀕死に追いやった(治ったけど、だから殺された)宮入貝問題です。
この問題は、将来龍治姉さんは語ります。


とにもかくにも、ウィリアムスが懸念した『悪夢のシナリオ』よりも、更に悪質なシナリオがこの地震で封切られませんように…m(_人_)m。


下流の3億5千万人の生命財産に、ストレートに関わりますから…。
posted by 久良岐 満 at 01:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月10日

映画「Rambo 最後の戦場」から紐解く「夢追い日記」ネタ



「Rambo 最後の戦場」が24日から公開されますね。
監督主演のシルベスター・スタローン氏も来日して、そのインタビューをテレビで見ましたが、やはりというかテレビでは、氏の強い主張が全く現れていない事が分かり、これもラジオで氏の言葉を聞いて、やっと伝わったことです。

この映画の舞台はミャンマーなのですが、氏は一貫して「Burma(ブーマ=ビルマ)」と言ってます。
ですから恐らく上映時ではランボーたちは、横のブログパーツにもあるように「Burma」と発言しても、字幕では「ミャンマー」と表記されるのだと思います。

なぜなら、日本政府はミャンマーの軍事政権を認めているからです。

しかしスタローン氏は、ミャンマーの軍事政権を絶対に認めないという意味で、ビルマという言葉を使っているのです。

新聞などのマスコミでも、当然その部分を「ミャンマー」と書き換えているのですが、こういうのはいくら政治の方針とは言っても、立派な「改ざん」の部類に入ります。

でも、ここではそういう政治のお話はしません。
日本がミャンマーの現政権に対して、どんな態度をとろうが今は構わないと思いますが、要は他人様の主張を(たとえ「読者視聴者向けに解りやすく」という善意でも)意図的に変えることが、民主主義的に大問題なのです。

とはいえ、ミャンマーもビルマも語源は同じで、意味も例えで言うなら「にほん」と「にっぽん」の違いでしかない(みたい)のですが、1989年6月に軍事政権は、国名の英語表記を「Union of Burma」から「Union of Myanmar」に改称した経緯があるので、同じ意味でも違う解釈がされるのです。



この絶対否定、戦国時代にも例があるのです。
そう、後北条氏です。
大永3(1523)年秋ごろ、伊勢氏綱が北条氏綱と苗字を変えましたが、その理由は関東における己の存在意義を確立するものでした。
具体的に言えば、鎌倉幕府の執権(ナンバー2)であり、相模・武蔵の守護を任されていた北条一族の、華麗なる名跡を引き継ぐというものです。

つまりこういうことです。
ナンバー2とは、当時の関東の政治秩序では、トップにいるのは古河公方(旧鎌倉公方)で、ナンバー2は関東管領(山内上杉氏)です。
なので氏綱は、北条と名乗ることで「あんたに関東ナンバー2の資格なし」という主張し、山内上杉氏(伊豆・武蔵守護も兼任)と対決姿勢を表明したことになります。

そして相模・武蔵守護とは、当時の相模守護は扇谷上杉氏であり、武蔵守護ではなくても、事実上の武蔵守護という世間の解釈もされていました。
というのも、武蔵国の江戸城・岩附城・河越城・松山城と江戸を河口に持つ入間川・利根川(現旧利根川)水系を直接支配しているからです。
なので氏綱は、北条と名乗ることで「お前の土地は全部俺のもの」という主張になるので、扇谷上杉氏に対する宣戦布告にも解釈できるのです。

氏綱にとって「北条」を名乗るということは、山内・扇谷両上杉の存在を全否定したことになるのです。
氏綱がそうしたのも、先代早雲が伊豆を占領してからずっと両上杉氏(特に関東管領、扇谷氏は同盟期間があった時期は言ってない)から「他国の凶徒」または「南方の凶徒」と罵り続け、旧来の伊勢姓を使い続けたからです。
これがどうも、国内外にそれなりの効果があったみたいです。
公式な発給文書にも、「凶徒」という差別用語や「新九郎」という幼名まで見られるくらいですから、彼らにとって後北条氏の関東進出は、相当嫌だったのでしょう。


だもんで我が『夢追い日記』における北条氏は、最初からこの路線なのです。
それをものがたるエピソードも出しています。
第4章で氏綱が河越を占領し、扇谷ゆかりの物を全部燃やした時に、管理人は氏綱に(氏康に対して)こういうセリフを言わせています。

「我らを『他国の凶徒』と罵る以上、両上杉との戦いは、互いの存在意義を賭けた戦いなのじゃ。だから敵の存在ある物は全て消す!」
(品第181:変わる三国(三)(第4章5節「孤高の虎たち」6))

そんな普段は温厚な氏綱が、これまで見せたことがなかった恐ろしいまでの牙を向いたその姿勢に、若い氏康はブルッと来たのです。



あの国はミャンマーじゃない、ビルマだ。だから軍事政権など認めない!
あれは北条じゃない、伊勢新九郎だ。だから今川に帰れ、関東に来るな!
ワシは北条じゃ。戦国乱世の”黒船”じゃあ!

”お前たちの存在など絶対に認めない!”
スタローン氏も両上杉氏も、本来の名前で呼ばないのは、そういう理由からなのです。
そして、今発表している段階での武田氏も、北条氏康のことを「伊勢氏康」と呼んでいるのも、政治的にはそういう事なのです。
でも晴信の本心は、そんなに「伊勢」と呼ぶことにはこだわっていません。共通の敵がいるからです。
父信虎は、神経質なまでにこだわり続けていましたが、その影響がまだ家中に残っていますし、表面上は関東管領とは和睦関係ですから、仕方なく「伊勢」と言ってるだけです…。


『夢追い日記』に見られる関東管領と氏康との戦いも、作品のみどころのひとつです。ぜひ読んでみてください。
この戦いが、上杉謙信に直接つながり、また甲駿相3国同盟の時に、武田にもある事で影響を出しますから、それは今後のお楽しみというところです…。
posted by 久良岐 満 at 14:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月01日

第10章(1543年〜1545年)前後のころの、武田家臣団の立ち位置

これはあくまでも「設定」ですが、イメージ的にはこんなかんじです。
社長の晴信くんも、あまり発言権がありませんので、あしからず…。
彼も「担ぎ上げ当主」である限りは、普通ならこんなものでしょう。

従来通りというか、正攻法のズケズケと突っ走る晴信なら、それも大変は解りますが、やはり基本設定が共通してる限りその線路に乗れば良いのですから、楽ですよ。

ですが、やっぱり当作品は徹底してアウトサイド路線を爆走したいので、すなわち晴信くんのやる事は、この筆者サマが思い通りに運ばせませんからね(爆)


とわいえ、晴信くんを担いだ板垣くんたちも、下剋上がしたくてしたわけではありません。
何故出来るだけの実力があるのに、しなかったのかという真相、そこはに、世界中で甲斐武田氏にしかない特殊事情があるのですが、それはいずれ『夢追い〜』の本編で書きたいと思います。


<身内>副社長みたいなもの。
武田信繁(無力)

<国人領主1>外部取締役兼地方大手企業の社長みたいなもの。名声も実力もある。
2強:穴山信友(河内領主)・小山田信有(郡内領主)

<親族衆>一族の生え抜きの取締役みたいなもの。
勝沼信元(勝沼代官、力は武田家臣最大級)
松尾氏(松尾代官、無力)
油川氏(油川代官、無力)

<譜代衆1>その他の生え抜きの取締役みたいなもの。
筆頭:板垣信方(諏訪郡代、実力は穴山・小山田クラス)
ナンバー2:甘利虎泰(寺社奉行、実力もある)

<譜代衆2>ここまでが重役会議に発言権が持てる。
その下:小山田虎満(海尻城代)・鎌田長門守(未設定)・飯富虎昌(飯富代官)・駒井高白斎(要害山城代(管理人といったほうがいいかも)、甲府町奉行のひとり)・南部下野守(未設定)・秋山虎繁(格上げ、未設定)

<譜代衆3>ここまでが重役会議の参加権がある。
更に下:長坂虎房(甲府町奉行のひとり)・今井虎甫(逸見領主から譜代衆に格下げ)・大井信達(西郡国人から譜代衆に格下げ)・いろいろ


<側近>だいたい譜代家臣や外様衆の次男以下で構成される。秘書室みたいなもの。
筆頭格:教来石景政(武川衆出身)
最有望:春日源助(石和出身)
その他:これがのちに百足衆となる。

<国人領主2>関連子会社の社長みたいなもの。
相木市兵衛(相木領主)
禰津神平(禰津領主)
など。

<他国衆>余所から来た部課長クラスみたいなもの。
筆頭:小畠虎盛(海ノ口城代)
ナンバー2:原虎胤(有賀城代)
ナンバー3:横田高松(甲府町奉行のひとり)
ナンバー4:多田三八(諏訪衆副将)
その他:真田幸綱(岩村田城主)・山本勘助(蔵原代官)
だいたい士官順に偉さが決まるが、勘助より先に士官したよそ者は無数にいるのも確かだが、侍大将の順番ではこうなる。



瀬沢の釜無川の堤防改修まで引き受け、多忙を極める勘助クン。
そのため、だいたいこんな割り振りにします。

<簡単な組織イメージ図>
役職名は彼等の「肩書」ではなく、そういうイメージとして見てください。

★総合プロデューサー:山本勘助

☆蔵原開拓主任:諫早左五郎

金沢金山代官:大仏庄左衛門(のちに高遠城築城の現場主任になる)

☆瀬沢改修担当:龍治(つがい)

こんなかんじでやっていきます!
posted by 久良岐 満 at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月04日

ぞろぞろと「信濃守」が出て来て…!

『夢追い〜』のバトルフィールド、信濃国が「一国境目」といわれる特徴でしょうか?

この作品に、信濃守と名乗る武将が勢揃いしました。
登場未登場合わせて7人います(のちに晴信もなりますが)。

★(府中)小笠原「信濃守」長棟
★(府中)小笠原「信濃守」長時
★(高遠)諏訪「信濃守」頼継
★(松尾)小笠原「信濃守」定基
★村上「信濃守」義清
★海野「信濃守」棟綱
長野「信濃守」業政

彼等がみんな信濃守を名乗った事で、府中小笠原氏(信濃守護)にはむかったかどうかは、実際のところは不明ですよ。

でも、多いですよね。
自分のテリトリーを宣言して、守護の介入を否定したのでしょうか?

妄想ばかりが膨らみます。


それともうひとつ、長時の官途である大膳大夫。
晴信がこの官途だったのは有名すぎるくらい有名ですが、武田家では晴信ただひとりだけなんですよね。
それにこれ、実は小笠原歴代では1番多く承った役職なんですよね。
しかも、元服の時に父信虎から譲られた(形式上)左京大夫を放棄してでも、これを取ったのです。

ちなみに小笠原歴代の大膳大夫は、長政・政康・持長・宗康・清宗・長朝・長棟・長時の計8人です。

この役職と信濃国は、何か意味があるのでしょうかね?

それだけ中世・戦国の信濃国は、ごっちゃんごっちゃんなんですよ…。
posted by 久良岐 満 at 00:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月27日

下手なりに、あえて「夜戦」と書かない所がミソです(笑)

やっとこさで『夢追い〜』では、河越城の戦いのプロローグに入り、扇谷上杉朝定のクランクアップも(17-3-1)に決まりました。
享年22歳、非常に勿体ない逸材です(_人_)

例えば『甲陽軍鑑』などでは、両上杉まとめて無能の権化とされているようですよね。
私も下手なりに調べていると、どうもおかしいのは山内管領ばかりで、扇谷家は氏綱と戦った朝興や、氏康と戦った朝定などは、組織の中身はどうあれ結構一生懸命戦ったイメージのほうが強かったです。
逆に山内管領家を調べると、特に太田道灌が死んでからそうですし、氏綱と簡単に和睦する憲寛もそうですが、憲寛の追放劇など通説通り「お前何してんねん」とツッコミ入れたくなるような事がよく目立ちました。

だから『夢追い〜』の中にいる扇谷上杉は、世間の常識とされている「無能」のレッテルをはがさせて貰いました。
それはやはり、憲政政権の腐敗堕落ぶりを強調させるためです。
だから、当時本当に管領利権を最後の頼みにしか出来なかった朝定は、苦しくも父朝興の遺言(江戸城を取り戻せ)に従う有能な殿様に変えたというわけです。
太田資正・難波田善銀という優れた家臣もいましたし、それでもトップ(公方・管領)がダメならは、下がどんなに有能でも無意味になってしまうという、組織運営のセオリーを描いたつもりです。
でないと、結局は上杉謙信の設定も薄っぺろくなるからです。

謙信を単に「純粋な懐古主義者かつ戦術の超天才」的な芸術家では、すみませんが、この作品では浮いてしまいます…。
朱子学を取り入れたのも、謙信の素朴な人間性を比較強調させる理由もあります。


最近の河越城の戦いでは「夜戦なんてありえないべさ」という意見が主流になっているみたいですね。
私も最近まで、北条氏対反北条連合が戦った河越城の戦いについて、あれこれネタを集めて書いていました。

このためではありませんが、社会人時代や某賞落選作品のために、何度か実際に川越には行ったこともありすし、やはり喜多院の辺りが雰囲気よくて好きですし、駅前の商店街の古本屋には何冊か興味深い本を買わせてもらいました。

やはり城下町に根付いた古本屋さんは、一味違います!


それはさておき、山本勘助と河越決戦。
確かに直接関係はありませんが、なにせこの戦いは、関東戦国時代の情勢を根底からひっくり返した戦いです。
足利幕府の政治秩序上では、甲斐守護職は関東管領職の下にいましたので、大河ドラマ『風林火山』同様、ウチとしても取り上げない訳にはいきません。

この戦後、明らかに武田晴信は、氏康の大勝利に便乗した軍事活動(内山城攻め)をしていますからね。

河越城で篭城する北条綱成・同宗哲・大道寺盛昌をはじめとする3000の兵。
それを取り囲む、関東管領を中心とした約80000人もの大軍勢。
それで、援軍で来た氏康の総力が8000人。

あまりにも謎の多いこの戦いで、10倍の兵力に対して、氏康はいかにして逆転イッパツ大勝利を目指したのでしょうか?


私が下手なりに考えに考えに考え抜いた結果の河越決戦は、やっと第17章で公開出来るようになりました。

解禁は9月になる予定ですが、期待しないでお待ちください。
人によってはシラけますから。
勘助の絡まないいくさですから、その辺は御勘弁ください(_ _)

ですから、ヘッド格の管領と公方の存在感のなさは無論、政権を握る奉行は全員ボケキャラに徹しさせましたし、そんなボケぶりをより彩らせるために、変な部下やら軍師やら学者を作ったわけです。
言ってしまえば、類友(るいとも)(類は友を呼ぶ)現象ですね。

とはいえ本当は『甲陽軍鑑』における、勘助の管領家批評から妄想を膨らましたのですが…。


それで本題に戻り、この河越大決戦では彼等奉行軍師の、まるで何処かの国の●●族議員のように、知識豊かに難しい言葉ばかり並べて飾ったKYぶりも、立派な敗因のひとつになります。

包囲軍に対して、ある条件(・・・・)に当てはめさせれば、氏康は「夜戦」なんて暗闇でコソコソする必要などなく、白昼正々堂々とガチンコ対決を挑んでも、間違いなく勝てますわな(…ムフ。)


そういえば晴信の野戦は、瀬沢以来何時になったら描けるのでしょうか?
野戦執筆はエキサイトしますよ!
下手なりにですが…。


えっ、小田井原までないって!?

早く野戦が書きたいです!
なんて、その前に12章に出てくる松島合戦が野戦ですね。

晴信不在ですが、勘助は活躍しますのでご期待ください!
posted by 久良岐 満 at 17:51 | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月21日

瀬沢合戦って何なのさ!?

『夢追い〜』でネタとして取り上げた瀬沢合戦。
今の長野県富士見町で繰り広げられた、壮絶な合戦と言われてきました。


えっ、過去形ですか…!


そうです。
ここ20年くらいでしょうか、この合戦を取り上げた武田信玄関連本を私は知りません。

というのも、これは実際にあったのかどうかが疑われている合戦なのです。
むしろ、今では存在否定傾向が強いです。

そりゃそうです。
文献面での証拠が、なにひとつないのですから。

この合戦を伺えるものは、ただ『甲陽軍鑑』ひとつです。
それも、武田信玄対信濃4将(小笠原長時・諏訪頼重・村上義清・木曽義昌)というスタイルを取っています。

いわば、信濃国が欲しい信玄にとって、その中ボス4人を倒さなければ大ボス(上杉謙信)を倒せないストーリー展開なのです。

うちでは、武田と諏訪のガチンコですがね。

だから『軍鑑』の、瀬沢合戦前後をよく確かめると感じるのですが、なぜこの合戦が最初にピックアップされたかのでしょうか?

ということを考えてみると、いわば信玄が信濃に攻めますよ〜、という時に、その代表選手をここで始めて紹介した、だから読者のみなさん覚えてくださいな、というような、自己紹介的な構成になっているのです。

というか、これが私が『軍鑑』を読んだときの瀬沢合戦の感想です。
だから、ここは編纂者の小幡景憲が、加筆か修正したのではないかと、私は予想しています。


では、現実この合戦があったかどうかは分かりません。
ただ、この周辺に何等かの大きな合戦はあったと思います。
でないと、小幡景憲はネタにしないでしょう。


確かにありました。
1541年3月ではなく1527年8月です。
相手は、武田信虎対諏訪頼満でした。
これは、神戸・堺川合戦と呼ばれる衝突で、前半は武田、後半は諏訪の勝利と言われる戦いです。

まるで、どこかの川中島合戦みたいですね。
しかも、信虎の相手は諏訪大明神の生まれ変わりですから、なんだか不思議な親子の縁ですね。

余談はここまでにして、あったんじゃないのですか?
武田晴信と諏訪頼重との国境での熾烈なバトルが…。

それが瀬沢合戦と呼ばれていなくても良いのです。


ただ『夢追い〜』で、何故この戦いを必要としたのか?
それは、信玄ファンなら誰もが知る、あのチョー有名なセリフに重厚感を与える為です。


ヒントは既に出ています。
さて、何でしょうね?
posted by 久良岐 満 at 19:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 『山本勘助の夢追い日記』コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする