■【正論】「胡訪日」以後 評論家・鳥居民(MSN産経ニュース)
これを読んで気になる一文がありました。
「色の黒い小男で、容貌(ようぼう)は醜く、才能もない」
私は恥ずかしながらも中国史はあまり知らないのですが、『水滸伝』の主人公宋江(ウィキディペア解説)は「黒三郎」とも呼ばれていました。
だから毛沢東は、あのようなバッシングをしたのでしょう。
才能が無いとは、偏見の言い過ぎたというのは、分かりやすいですね。
彼みたいな小さくて色黒で醜いって、これ、日本史上の人物に条件ピタリの男がいますね。
そう、われらが山本勘助です。
品第11には、勘助の容姿のことが点々と書かれています。
その中にあるものは、「さんざんな醜男」「そのうえ一眼」「指も不自由で足も不自由」「片輪者(ビッグマウス)」「小男」と、品第24でもボロボロに言われていまして、以上に加えて「色は黒い(汚い)」とあります。
それで類い稀な才能が溢れ、庶民の人気も現在進行型ですから、このアウトサイドヒーローの2人は、なんだかよく似てますね。
偶然なのでしょうか?
もし「チビ・クロ・ブサイク」がキーワードになるのならば、それは山本勘助という存在よりも、むしろ『甲陽軍鑑』という書物かもしれません。
ちなみに、容姿の件に関して、実は勘助にはモデルになった人物がいるのではないかとも推測され、それは『軍鑑』の作者のひとり、大蔵彦十郎ではないかと見られています。
勘助の片足片腕は、大蔵がそうだからダブらせたのだと憶測されているからです。
もし赤字の3つがキーワードなら、ちょっと面白い事があるのです。
毛沢東は中国を建国した人です。
歴史の教師をやっていたことですから、国の基礎固めのためには、儒教史観にも統制にもやかましい人だということが見えてきます。
それで世界中からアンチ民主的とヒンシュクを買い、現在にまで引きずるのです。
なにせ国家の立ち上げの時期です。自分中心に社会を構築させたいのです。
でも反乱分子もまだ数多く潜んでいるという、デリケートな社会背景があるのです。
そしてこれは、江戸幕府にも同じ事が言えるのです。
幕府草創期のメディア支配ですが、家康時代は金地院崇伝(仏教)ですが、秀忠時代からは林羅山(儒教(朱子学))です。
つまり、大名統制(改易など)が異常に頻繁に行われていた時代です。
そんな元和のピリピリした空気の中で、編纂者の小幡景憲は『軍鑑』を世に出すのです。
それで庶民に、夢と希望を与える雰囲気の強い天才武将山本勘助の存在は、将軍護持の身分制でガチガチに固めたい幕府の儒教的中華主義にとっては、目障りになるのは明々白々です。
夢と希望とは、見方を変えれば、既成の価値観破壊活動を導きやすい考え方です。
ですから、そんな下層の人気が非常に高い宋江を、毛は忌み嫌ったのも儒教を照らせば理屈になるのです。
となれば『水滸伝』がこの世に残れたのも、宋江の風貌を、あえて地に落としたからだという、作者側の英知というか、したたかさがあったのではないかという仮説さえ出来そうです。
でも、勘助なしに信玄のサクセスは成り立たない事も動かせない事実です。
この辺の事実と江戸幕府基礎固めという現状のギャップを、景憲は懸念したのでしょうか?
そこまで分かりませんが、『軍鑑』にある勘助最大の謎は、彼は武芸達者で一流の知恵者で築城の天才でありながら、身体障害者扱いしないといけないのか、なのです。
これはある方の受け売りなのですが、別にハンディキャップのある人を差別する意味で言うのではありません。
身体が不自由にもかかわらず、勇者を倒したり砥石崩れでは殿軍を買って出たりと、健常者ですら仰天するくらいの機敏の良さなのです。
これは、ミステリーとしか言いようがありません。
儒教には『身言書判』という、封建的な外見至上主義の考え方があります。
整形大国の起源として有名なこの考え方が、障害者さえ忌み嫌うイデオロギーでもあります。
これが過敏に反応するワードの中に、恐らく「チビ・クロ・ブサイク」があるのでしょう。
『水滸伝』も『軍鑑』も、この外見が事実であれ虚構であれ、あえてそう使う事で権力の魔の手から逃れ、また下層の反乱のネタ元にされることからも避けさせ、それで世渡りが出来たのではないかと私は妄想してしまうのです。
まさか小幡くんは、『水滸伝』のこれを見抜いたのでしょうか?
謎が深まるばかりというか、勝手に謎を増やしてどないすんねん!
ならば、明治以降『軍鑑』が散々なまでに叩き潰された理由に、これは繋がります。
発刊した年代を考えれば、『軍鑑』には江戸儒教対策がふんだんに盛り込まれている訳ですから、それがスパイスにある以上、史実よりも当時の最高権力者の都合で、メディアを成立させないとならないのです。
そして、そんな近世を全否定したのが近代です。
勘助否定の第一人者だった田中博士が、勘助を全否定したのには、そんな明治時代の空気があったからです。
要は昭和43年、北海道で「くだ助」の文字がある市川文書が発見されるまで、私達はみんな、秀忠・羅山の推し奨めた毛沢東も顔負けの儒教(正確には、生き残りの為の編者の儒教対策)に、無惨なまでに振り回され続けた事になるのです。
ならばそれだけ『葵三代』時代の儒教とは、非権力者サイドにとって、恐ろしくも厳しいものだというひとつの目安になりますね。
歴史を読む、日本史や東洋史に必要なカテゴリーの中に「儒教・皇国史観を見抜いて、正しい歴史情報に洗い直す」事があります。
なぜなら、戦国以前の歴史は、例外なく近世・近代を通過して現在に伝わってるからです。
この視点は、一人よがいなネガティブキャンペーンが多分に認められますので、それでピカピカにされすぎた部分と汚された部分を、いかに見抜いて多方面からメスを入れながら修復できるかという、結構ハイな能力です。
とはいえこれはプロの歴史家レベルですから、そこまで身につけるのは難儀でしょうが、私ら素人も、ある程度は知っておくと便利でしょう。
反日史観対策にも応用できますし、戦前・戦中の大暴走した同じ過ちを繰り返さない為の、根本を見抜ける眼力にもなります。
両者とも、火元は同じ朱子学ですから…。
ですから、これを知らずに字面主義にはまると、必ず蟻地獄に陥りますからよ。
新しい資料が発見された時に、いの一番にやらなければならない事は、真偽の確認です。
系図作成が特に言えますが、大低の偽文書が生まれる背景には、『軍鑑』がそうだったのと同じ儒教(=当時の権力者)対策があるからです。
日本の歴史が嫌われる根本原因は、ゆとり教育もそうですが、江戸の朱子学と近代の勤皇(ネタ元は同じ朱子学ですが)が、自分本位に歴史をいじくり回し、ひどく散らかしたまま終戦と同時に消滅したからです。
そんな意味で、徳川光國の『大日本史』と頼山陽の『日本外史』は、日本史の世界におけるA級戦犯だと言われた方は、卓見です。
確かにプラス面の成果も沢山ありますが、結局は偉い人の器の広さ狭さに翻弄されるのですから…。
それに儒教は、毎度の事ながら作家(正確には著作または著作権)殺しを好んでやりますので、その辺は私情が混じって恐縮です。
とはいえ、グチャグチャにされた歴史を修復せねばならないそのツケ払いは、現在にまで至り続けられているのです。
色々とずれてしまいましたが、勘助と宋江の「チビ・クロ・ブサイク」、本当かどうかは、おそらく永遠の謎でしょう。
っつーことで、どうでしょうか…?(ケロロ軍曹風に)



